その本を読んだせいで自分の正しさを強迫的に人に対して証明し続けることをやめ、自分は生きていていいんだと緊張感が死ぬほど緩んだ

大量の本を読んできた、だから何でも知っている。

でも自分で考えて、決めてる気がしない。自分の意見がそこにはないことに薄々気がついている。冷静になってみると自分が言ってることはすべて誰か他の人の意見の焼き直し。

理論的な正しさを主張したり、論点をあえて微妙にずらして誰かを言い負かせることはできる。口は達者で理論武装は完璧にできる。自分が言ってることは正しいし、間違っていない。

間違っているのはあなたの方だ。

そうして相手を言い負かせることが生きるための方法。

でも、自分の周りから人が離れていく。

自分は無敵だが、友達はいない。

学校の勉強はできたから頭は良いということになっている。学校という閉じられた特殊な社会の中ではやっていけた。でも学校の外の現実の世界では、うまくいかないとどこかでは気がついていた。

だからといって、自分は本当は何がしたいのか?何が言いたいのかと考えると、自分が誰かに心の底から伝えたいことなど何もないことに気がつく。

自分が何かを伝えたいという欲求が存在するという考えすらなかった。

それでここまで生きてきてしまったのだが、

自分は何がしたいのか?

と考えると真っ暗なブラックホールに吸い込まれていくような感覚に襲われる。

それで、その暗黒を埋め合わせるためにさらに本を読み、誰か人の意見やたくさんの情報を頭に詰め込む。

ビジネス書、自己啓発書、宗教書、小説、誰かの人生、誰かの意見、などなどとにかく本を読んでいる限り、自分で考えなくて済む。

そうすれば、自分の中には何もないという現実を見ないで済む。

そして、間違っているのはあいつらで彼で彼女なので、自分は正しい。だから問題ない。で、自分の周りから人が離れていく。

本当はさみしいんだけど、その感情に気づいてしまったら、どうしていいのか分からないので、ふたをして見ないようにしている。

このままでやっていけると思えない。

実際のところ人生行き詰まっている。

しあわせって何だっけ?

子供の頃は、楽しかったりわくわくしたりしたことがあった気がするが、そんな感情はもうどこにもない。

そんな中で出会った1冊の本。

人は、何をしているのか?自分は何をしているのか?

人は、自分はどこからきて、どこに向かっているのか?

自分の周囲のありとあらゆる物事にあてはまる基本原理があった。

それを元に、自分と周りの人たちは何をしているのか考えてみると、周囲の人は必ずしも自分を攻撃してくるわけではなく、自分を嫌ってるわけでもなかったことが見えてくる。

誰かの考え、意見を信じた訳ではなく、様々な物事に当てはめられる法則を知り、その法則は実際に様々な物事を説明するのかどうか、自分の生活やら人間関係に当てはめて考えてみる。

それで、確かにその通りだと理解し、ものすごい安堵感に襲われる。

そして、そこにある技術を実際に使ってみる。

期待した結果が得られたか、自分で観察する。

観察して、実際に自分にとって正しいのかどうか判断する。

いくつかの知識を得て何が起こったか、その一例。

問題を解決する第一歩は、そこで使われている言葉を定義づけすることである。

で、そこに書かれていた「幸福」の定義。

読んで理解する。たしかにそれが「幸福」だと思える。

その定義を自分の人生、人の人生に当てはめて考えると、
自分はなぜ不幸せな感じなのか。
彼女は幸せになりたいと言うが、そのままじゃどうにもならない。
ということがはっきり理解できる。

では何が問題で、どうしたらいいのか。

その理由と解決策がこの定義づけによって明確に見えてきてしまう。

信じるのではなく、理解することで自分で解決策を見いだすことができた。

得られた知識と実践の結果どうなったか?

今では自分は目の前の人に伝えたいことを伝える。
目の前の人が伝えたいことを聞き、理解する。
その繰り返しができる。

当たり前で普通のこと。

でも以前はそれができなかった。
自分は正しいと主張し続けなければいけなかった。
そうしなければ生きていけないと思い込んでいた。
だから人の話が聞けなかった。

それは、自分と周囲の人たちの幸福のためには必要なかった。

今は人生を、生活を、仕事を、家庭を楽しんでいる。
まだ小さかった子供の頃、自分の中に存在していたわくわくどきどき感も取り戻した。

その本がこれ。

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彼女が去った訳は、彼の中で疑われない絶対的な正しさのため

ちょっと聞いてくださいよー

一時的に派遣されてきていた彼女は、ちょっと離れたところにいるひと仕事終えてだらだらしている私たちのところに延長コード貸してくださいとか用事を作っては来て、あの人ひどくないですかー!そんな教わってもないのに教えたでしょって知りませんよ!!とかなんとかいろいろ吐き出してからまた持ち場に戻っていく。

それで私たちは、あっはっは、そりゃひでえな。まあいちいち真に受けてたら身が持たねえから、スルーして。スルー、スルースキルを鍛えるのがこの世知辛い現代社会を生き抜いていくためのコツだよとかなんとか適当なことを言ってなだめる。

何度も繰り返された光景。私はその例のあの人とは業務上直接関わることはなかったが、同じフロアーで仕事していたので、その例のあの人が周りの人から避けられていく状況を私は何度も見させられていた。

そして、もう辞めるんです。あそこで働くのもう無理。いろいろ話聞いてくれてありがとうございました。お世話になりました〜

と言われたのが彼女と話した最後だった。

あとから何があったのか上司から聞いた。

積んであったダンボール箱が作業中の彼女に向かって崩れた。
それで例のあの人はすっ飛んで行った。

真っ先にチェックしたのは、彼女ではなく、ダンボール箱の中身の商品だった。

幸い彼女にケガはなかったし、命に別条はなかった。しかし、その対応は問題ではないか。彼女は派遣元に訴え、それで派遣元からこちらにクレームが来たとのことだった。

例のあの人は取引先の担当者には気に入られ、それである案件の管理者として業務を続けていた。

受け持った案件に対しての責任は十分過ぎるほど持っていた。もう何年も土日と正月以外一度も休んだことはなく、またミスを防ぐためのチェック体制を二重三重に構築し厳格に運用していた。

まじめで一生懸命な努力家なのは間違いない。
その行動は悪意から来ているわけではない。
だから、悪い人ではない。

業務の手順、運用は熟知し、完璧に動かしていた。
彼は正しいし、間違っていない。

もちろん、取り扱っている商品は、その業務において重要なもので、傷つけたり壊したりすれば大問題になる。
商品を気にするのは当然だしそれは正しい。

では何が問題だったのか?

通常通り業務が進行しているときであれば、問題はない。
でも予想していなかった緊急事態。
優先度を状況に応じて判断しなくてはいけない事態が起こる。

自分の受け持ちの現場で人が怪我したかもしれないことと、商品が破損すること、どちらが先に対処しなくてはいけないことなのか?

それを考えることができないほど、業務の遂行は彼の中では絶対的に重要なことになっている。

何かと比較してどの程度優先順位が高いのか、判断するという発想が彼の中にはない。

話し合ったとしても、彼の中で彼は絶対的に正しいので、間違っているなどということは受け入れられない。

以上、残念ながらどうにもならない。

ありきたりなやり方では。

自分の中だけではなく、現実の世界に適用可能な論理の仕組みについては書籍「ダイアネティックス」を参照。

ダイアネティックス紹介DVD差し上げます。

メール:ask@tsuiteru.jp
Facebook:村田拓

前はちょっと残念なイケメンだったのに変わったねと言われたのはなぜなんだ?自覚症状があまりなかった5月の晴れた日。

その残念とはどこの部分を指していたのか?

人間観察が趣味のそのかわいい女子に、具体的に念入りにその説明を受けてしまったなら、タバコでも吸えたらよかったんだろうけど、吸わない私はきっとわさび味の柿ピーをやけ食いしてしまう。

実際問題、私に対して失礼だからとその残念な理由について、認識された事実をはっきりとそのまま伝えてくれることはない。

だから自分で分析してみる。前と何が違っているのか。

とにかくまず、ここしばらく妻が私に対してイライラしない。
穏やかな日々が続いている。

以前は、地雷を踏まないよう、気を遣って慎重に慎重に言葉を選んで話していたつもりだった。悩み、愚痴、問題、話してくれるあれこれに対して、あくまでよかれと思い自分の考えを論理的に述べていた。悪意があったわけでも関係を壊したいわけでもなかった。

私は、自分の思うところ、それは違うんじゃないか、こうしたほうがいい。などといったことをうまく伝わるように考えながら答えていた。

愚痴を言うな。解決策を考えろと。学生時代の恩師がおっしゃられていた。

それはまったく正しいし、その通りだし、その考えを採用して実践することに何か問題があるわけがない。だから愚痴に対してそんなことを言っていないでこうしたらいいと提案することに疑いはなかった。

女性の話はしっかり聞いて受け止めておけばいい。意見が欲しいわけでも、議論したいわけでもない。反論などもってのほかだ。というどこかから聞こえてくるアドバイスはあった。

それはそうなのかもしれないが、間違っていることは間違っていることだし、それは正さなくてはいけない。と、その貴重なアドバイスを受け入れられるだけの理解が、当時の自分にはなかった。

で、私は、妻が話してくれる仕事上のあれこれに関して、それはこうだから、こうしなくてはいけないという理屈を並べ立てる。

そして、話すんじゃなかった、もう話さないと言われ、
あれ?おれ間違ったことは言ってないはずなんだけどなんでこうなるんだ????と訳の分からない状況に陥る。

そんなことを繰り返すうちに、取り返しのつかないところまで行ってしまっていたのがちょうど去年のこの時期だった。

そして今。妻が話してきたら、聞くし、自分が思ってることはそのまま話す。それで何も問題が起きない。以前のように気を遣って慎重になって言葉を選んでなんてことはしていない。とにかく無理してない。そのままでいる。そして話したいことを話し、聞きたいことを聞く。それだけ。

穏やかな毎日。

前はこんな自然な感じじゃなかった。

あまりにも今は自分が無理したり努力したりしてないので、自分がこの一年で大きく変わったという自覚すらない。

以前はもっと無理していろいろと取り繕っていた。無理していること自体自分で気がついていなかった。

以前の私は、愚痴を言いたくなるその感情の存在に気づいてさえいなかった。自分のも人のも。考えは考えだし、感情は感情だ。受け入れがたいドロドロとした感情でも、受け止められる誰かがいれば、消えてなくなる。なにかしら受け入れがたい感情が渦巻いている中では、それを処理しないうちに考えは伝わらない。いくら論理的に正しかろうと、それは論理的に正しいというだけで、求められていることは、感情を受け止めるということだったわけで、私はずれたことをしていた。

自分が伝えたいことを伝えるのは別に構わないのだけど、相手がして欲しいことがあるのならば、まずはそれを行ってからということになるだろう。今だったらそれが理解できる。

当時の私は、相手の状況を見ることよりも、自分の正しさを主張することにエネルギーを注いでしまっていた。
だからうまくいかなかった。

どうやって変わったのか?

過去の出来事はすべて心に記録されている。
そして、痛みと無意識を含む記録が、自分が意図しないところで、気がつかないうちに自分に悪い影響を及ぼす。そしてその記録がもともと持っていた自分の意思とは違うことを、知らず知らずのうちに行ってしまう原因になる。

詳細については、書籍「ダイアネティックス」にある。

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塩素臭い汗が洗い流した青春コンプレックス

20141005

青春を取り戻したい。若い頃できなかったことやり直したい。

とか言ってきた私がまだ独身だった頃の職場の同僚の女性は、その後、業務以外の話をしなくなった。彼女は連休後に、生八ツ橋をおみやげだと同じフロアの同僚に配っていたが、私のところにはまわってこなかった。

私はかなり追い詰めるようなことを言ってしまった。

「いい年して何をマヌケなことを言っているんだ。
その取り戻したい青春って何?まずそこ具体的にしろよ。そもそもその当時、行動にうつさなかったくせして、取り戻すもクソもないだろ。取り戻せるのは持っていたものだけ。もともと持ってなかったものは取り戻すって言わねえんだよ。

ていうか、今、目の前の仕事やらなんやらをほんとに頑張ってたら、そんな昔のことどうでもいいはずじゃん。なんか余裕かましてねえか。」

ちょっと一服の時間に、自販機の前のベンチでたまたま私とふたりになり、黙っているのも気まずいので、おそらく彼女は気を使ってちょっとした話題を提供してくれてただけ。そんなニュアンスも読み取れずに、一見正しそうな理屈で彼女を追い詰めた。彼女にとってみたら、なんで休憩中にそこまで言われなくちゃいけないのかと、理解に苦しむ状況だっただろう。私はいったい何様でなにがしたかったんだろうか?

まあ、これについては、彼女が話をするのを促して、ただ聞いておくぐらいにしておけばよかったんだと思う。私が間違ったことをしていたと、今ならよく分かる。でも、なぜか、つい間違ったことをしてしまい、その時はそれが間違ってると気づけない。

自分の十代の頃のことは恥ずかしすぎて思い出したくもない、考えたくもない。ついうっかり思い出させられると、悶え苦しんで頭を抱えてうずくまってしまう。当時のことは全体的に黒くて苦しくて死にそうな気分でおおわれていた。

なんで高校生の私は登下校時や授業中も一日中サンダルで過ごしていたんだろう。それで、何か社会やら大人やらに反抗しているつもりだったのだろうか?恥ずかし過ぎる。

当時、自転車の後ろに女子をのせて二人乗りとかやってみたかった。初夏の下校時に、女子からハイって飲みかけのサイダーを渡されて飲んでみたかった。

それを実現させるために、当時の私は何かしたか?結局何もしてねえだろ。と自動的に思考が回り始めて考え始めて死にそうな気分に陥る。

若い時のできねえ、ちくしょーという鬱屈した思いはずっとどこかに残ったままで、ふとした瞬間にそれがよみがえってくる。その感情をなかったことにしようと無理やり心の奥底に押し込み、見ないようにするために目の前の仕事に打ち込む。そうやってこれまで日々をやり過ごしてきた。

それが彼女の青春がどーのこーのという話で、思わず押さえこんでいた過去を思い出しそうになってしまった。それで冷静にしていられなくなり、自分を振り返らないようにするためについ言い過ぎた。

何かの拍子に特に意図したわけでもないのにこのように失敗するというパターンを私はちょくちょく繰り返していた。このままだと、またいつか意図せず人に妙なことを言ってしまい、人が私から離れていくことになってしまう。

どうしたらいいんだろうと考えても答えは出てこない。私はますます会話が減っていき、人生がうまく行っていない気分がしていた。

しかし、それが思っても見なかったことで、状況が大きく変わることになった。

311の地震の後、放射能の影響を感じていた。地震の当日、電車が停まり、都心から郊外に向かう街道は、歩いて帰宅する人たちで列ができていた。その日は、目につく大勢の人たち一人一人は、とにかくその日のその時間を対処するために、出来る限りの行動を起こしていた。

大変な状況なのは、皆同じ。感情的になってる場合じゃないという感じで周りの人達は動いていた。

その翌日、翌々日と時間がたつに連れて、なぜか、怒っている人、泣いている人、妙に感情をむき出しにしている人が目につくようになった。うちの息子達も、兄弟喧嘩して怒鳴り散らした後に、メソメソシクシク泣いている。気がついたら私もなぜだかみじめな悲しい気分になっていた。

私も含めた周囲で急激に感情的に押し下げられた感じがしていた。ああこれがうわさに聞いていた放射能の影響だ。まずいな。どうしたらいいんだ?

それで、友人から早くやったほうがいいと勧められた解毒プログラム、ピュアリフィケーション・ランダウンを急遽行った。

このプログラムでは、身体に蓄積し精神に影響を及ぼし続ける薬物、化学物質、放射能の影響を取り除く。

放射能の影響は身体に蓄積していく。
また、薬物、食品添加物、その他各種の脂溶性の化学物質は、排出されずに人体の脂肪組織に取り込まれる。取り込まれた化学物質がその後も身体と精神に影響を与え続ける。

ドラッグをとってから何年もしてから、突然、そのドラッグをとった時と同じ感覚に襲われるフラッシュバック。それは人体の脂肪組織に取り込まれたドラッグによって引き起こされるという。

私は、二十代の前半の頃、ビールをほぼ毎晩飲んでいた。薬の類は子供の頃は、病気になればとらされていた。でも好きではないので大人になってからはとっていない。食べ物は、コンビニ弁当やら市販の保存料、食品添加物たっぷりのものは、なるべく避けるようにしていた。

だから私の身体と心に悪い影響が残っているのは、アルコールと例の放射能の影響だろうと予想していた。

プログラムでは、体を動かし、いくつもの種類の計算された量の栄養素を摂取し、サウナに入って汗を流す。それを、毎日行う。
サウナで汗を流している間、排出される化学物質やら放射線の影響が、身体にでてくることがあるとのこと。

実際、はじめて数日の間に、肌が赤くなったり、チクチク感じたりした。風邪をひいたような状態になったりした。日焼けやら、放射線の影響が身体から出てきては消えていった。

そんなことを繰り返しつつ、何日もたったある日、サウナでべとべとしたねばりけのある汗が流れていた。ツンと刺激のある匂い、塩素の匂いがした。

同時に、昔のある出来事がよみがえってきた。

学生時代、初夏のある日の放課後、学校のプールで泳いでいた。いつもの部活だったが、水が妙に白っぽかった。泳いでいる最中は特に気にしていなかったが、プールから上がってから気持ちが悪くなった。のどが猛烈に乾いたような不快な痛みと腹痛がうちに帰ってから、寝る前まで続いた。

前の晩に、いたずらされて、消毒用の塩素剤を何袋も大量にプールの中に投げ込まれていたらしい。規定を大幅に超える塩素濃度だったのだろう。

翌朝は、特に問題なかったのでいつも通り学校に行った。身体の不調はそれ以降、特になかったので、この出来事を思い出すこともなかった。

しかし、その二十年近く後になって、サウナの中でその時と同じ感覚が蘇ってきた。
しばらくその不快感が続いて、徐々に消えていった。
消えていった後は、余計な刺激がなくなった感覚があった。

当時のことを思い返してみる。夏のプール。腕と足で一定のリズムを刻み泳ぎ続ける。水底には私の影。息継ぎの瞬間に目に入ってくる水面上の水しぶき。太陽に照らされてきらきらしている。

若かった頃について、そんなに悪くなかったと思えてきた。自分がかつてやらかしていたあれこれ、恥ずかしいことに変わりはないが、そこからひどく影響を受けて落ち込んだり、頭を抱えてうずくまったりすることはない。それはそれ。もう済んだこと。大事なのはこれから何をするかだ。と理性的に考えられる。

息子が休み中に女の子二人とプールに行ってきたという。

なんだって?

今からそんなことをしていたら、勉強に差し支える。
教育上問題だとかなんとか、叱ったりはしないかった。

そりゃよかったな。楽しかったか?

ピュアリフが終わっていなかったら、こんな普通の会話もできてなかったかもしれない。

もちろん、親として見ておかなくてはいけない部分もある。

でもとにかく、彼の青春を取り上げずにすんでよかった。

 

参照文献:

ピュアリフィケーションランダウンについての詳細は
書籍「クリアーな身体、クリアーな心」から

人の記憶の全体象について、
理性的な思考の定義。
正しいとはどういうことなのか?
本来、人はどれほどの能力を持っているのか?
そして、理性から外れる逸脱した思考を引き起こす根本的な原因については。
書籍「ダイアネティックス」から

なにかありましたら、こちらからどうぞ。
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