子供の時から長年続いていた不安、しんどさが完全に消えてなくなった

仕事を終えた帰り道。夕暮れのほとんど沈んでいる太陽からわずかな光が徐々に消えていく時間。

今日もいつもと変わらない一日だった。

このままで大丈夫か?

もっとがんばらないといけないのか?

子供の頃から気がつくとこんな感覚にとらわれていた。

別に差し迫った問題があるわけではないが、漠然とした不安が常に自分の周りに覆い被さっていた。

帰る途中のコンビニでワンカップ酒とおつまみを買う。

これで大丈夫だととりあえず不安がおさまる。

うちに帰って飲んで酔っ払ってネットの動画でも見ていれば、あまり深く考えずに済む。

それで軽く酔ったまま寝て、朝起きてまた仕事に向かう。

その繰り返し。

もっとがんばらないと。このままで大丈夫か?

という不安が少しずつ大きくなっていくが、何かやりたいことがあるわけでもなく、仕事を辞める理由もなく、かといって続ける理由もあまりない。

この消えない漠然とした不安をどうしたらいいのかという疑問だけが残ったままだった。

そんな中、ダイアネティックスのオーディティングを受ける機会があった。

オーディティングを行うオーディターの指示で、

「このままで大丈夫か。このままで大丈夫か。このままで大丈夫か。」

と繰り返したら突然右腕が痛みだした。

痛くて苦しい。さらにひりひりする。

そしてある出来事がよみがえってきた。

昔子供の頃のある夕方、親戚が集まってバーベキューをしていた。

私はそこでつまずいて転んだ。

そしてコンロにぶつかってやけどした。

その時の情景の映像を繰り返し繰り返し話す。

そこでだんだんわかってきたこと。

「このままで大丈夫か?」

心配している父が声をかけてきている。

「がんばれ!がんばらないとだめ!」

と母が私をはげましている。

叔父がワンカップ酒を片手に持って、やけどにかけて、

「これで大丈夫。」

とか言っている。
お酒でアルコール消毒のつもりだったらしい。

ひりひりする強烈な痛みが続いたが、出来事をはじめから終わりまで通して繰り返すうちに痛みが消えた。

そして彼らからそのときにかけられた言葉から自分がずっと影響を受けていたことに気がつき、そのあまりのばかばかしさに笑いがとまらなくなった。

それでオーディティングは終わりになった。

その後、仕事の帰り道、いつものように夕陽の光がゆっくりと消えつつあるのをただ見ていた。

でも、以前はあったつらさ、不安、しんどさがない。

不安に対してがんばって乗り越えようとか、努力して注意を向けないようにする必要もなく、ただ単にその不安がない。

以前はもやもやした不安感の中にいて、それを通して周りを見ていた。

今は目の前の景色をただ見ている。そしてその景色の美しさを感じることができる。

景色自体が変わったわけではなく自分が変わってそのせいで、周りをただそのまま見られるようになっている。

ワンカップ酒を飲みたいという欲求もなくなった。

おじさんっぽいあの酒が自分は好きなんだと思い込んでいたが、ワンカップ酒が好きだったのは親戚のおじさんで、自分ではなかった。

酔ってないので夜、頭が働く。

ネットで何か売ってみようかとか考え始めた。

会社で、なぜか突然部下ができて、ある仕事を全面的に任されることになった。

無理に力を入れることなく自然に前向きになっている自分が不思議だ。

※上記のストーリーはオーディティングを受けられたある方の話を元に再構成したものです。

書籍 ダイアネティックスはこちら

運悪く人の能力を抑えつけ失敗させる指導者がついてしまい、楽しめたはずの車の運転やらスポーツが長年消えることのない苦痛になる。

決まったことを型通り伝えて、生徒にやらせるだけ。

生徒がなかなかできかったりうまくいかないことを、自分の教え方ではなく生徒のせいにする。

教えた結果どうなったかを観察しない。できない。その必要性もない。
生徒の能力の向上ではなく、自分は間違ってない、悪いのは生徒だ主張することに全力を使う。

だから、なんでできないんだ!などと怒鳴り散らして責め立てても生徒が悪いのだから問題ないという怒鳴っている本人は自覚がない思考回路。

そんな先生や教官、インストラクター、上司がついてしまったら、運が悪かったと思うしかない。

その人のそばにいると、自分の能力が劣っていて才能がないから自分が悪いんだと落ち込んでいくことになる。

避けられるのであれば、避けるのが無難。

例えば、なぜか長縄飛びに熱心なある小学校の先生。

クラス対抗の大会に向けて練習するが、毎回引っかかってしまう子が2名。

彼らに対して、何やってんだと怒鳴りつけ、休み時間と放課後に残して練習させる。

帰りたいのに残ってやらされる上に、さらに足に長縄がひっかかる度に何やってんだ、おまえらが足をひっぱってるんだ。やる気あるのかと怒鳴りつけられる。

彼らはおこられるのが怖くてますます動きが硬くなり、周りが見えなくなり、縄跳びはとべないまま時間が過ぎていく。

彼らは周りの足を引っ張ってるのはよく分かってるし、なんとかしたいと思ってるんだけどうまくできないから焦ってしまう。

そんな状態で、さらにそこで怒鳴られてますます萎縮する。

その悪循環。

もうやりたくない、関わりたくないという気持ちになる。

運動嫌いのできあがりである。

時々耳に入ってくる自動車教習所の教官の悪評。
言われたことをやりなさいと押しつけてくる教官がいてつらい。合わない。その自動車教習所をやめたい。でも高いお金を払っているからいまさらやめる訳にもいかない。とある方が話していた。

何かを教える仕事を続けていると陥りがちな状況がある。外からのチェックが入らない。指導してどうなったか結果を厳しく問われることもない。何もしなくても座っていれば生徒が常にどこかから入ってくる。

それであれば、ただ流れ作業的に型通りのことを言い、機械的に行わせるだけですむ。それ以上のことをする必要も必要性もない。

ただ決められたカリキュラムをこなさせていく。

それだけだったらまだ被害は少ないのだが、生徒の失敗、ミス、意図せず違ったことをしてしまったことに対して、なにやってんだと怒鳴りつける。

そもそも、生徒さんははじめてそれをするわけで、間違えるのが当然の状況。生徒さんはおっかなびっくりやっていて、それで間違えて動揺している上に、教官から強い口調でなにやってんだと責められる。

怒鳴られるのが怖いので、言われたことをそのままやるが、自分が何をやっているのか理解していない。

ハンドルを切る動作、窓とミラーから見える景色を見て、カーブの具合に合わせて操作するのではなく、曲がるときにはハンドルをこれだけ回す。でカーブをぬけた先の目印のところですぐにハンドルを戻す。などと、決まった型を作ってその通り行ってその場は切り抜ける。

運転席が右側にあるために、車の左側の状況が見えない。そのために車がどこを走っているかが分からない。でも言われたとおりやっていたらなんとなく走れてはいる。

教習所内での技能試験には合格して免許はとれた。

でも怖くて都会の道は走れない。

ペーパードライバーのできあがりである。

結果を出せるよい指導者がやってる7つのこと。

1.生徒がなかなか向上できないのだとしたら、100%とまでは言わないが最低でも半分は指導者である自分に責任があると考えられる。

2.生徒を観察して何が起こっているのか見ることができる。

3.その上で、生徒の理解と習得の度合いに応じた適切な段階を設定することができる。

4.適切な段階の問題にぶち当たらせて、問題を認識させた上で解決策を伝える。

5.伝えたいことを相手の持つリアリティに合わせて、言葉を選んで様々なやり方でとにかく伝わるまで何度でも繰り返すことができる。

6.そのために生徒の無能力さがどれほどであろうと耐えて受け入れることができる。

7.自分の正しさを主張することでも、イライラした感情をぶつけることでもなく、生徒の能力を向上させようという意図を持っている。

そういう指導者、先生、インストラクターと出会える場所を作りたいとか考えていたが、そんな人は実際どこにいるのか?

とか考えていたら、いた。

仕事の関係で、車の運転をときわ台カースクールという自動車教習所で教わる機会があった。

そこのインストラクターがものすごかった。

ぐるぐるコースを周回していたら、走行位置が右に寄る癖がありますねとの指摘があった。

自分では自覚はなかった。

そこで静かに言われたこと。

右カーブでセンターラインずっと見てますよねえ。
カーブする時、カーブの先を見てもらえますか?

指摘されて、確かに自分はセンターラインだけ見ていたことに気づき、カーブの先を見ながら、運転してみた。

するとあれ?さっきとだいぶ違う。

今は自分が道のカーブ具合に合わせてハンドルの回し方を微妙に調整している。

さっきまでは、センターラインを見ながらカーブの始まりと終わりを見てそれに合わせてハンドルを回していた。

思わずああ!そうか!!と。声がでてしまった。

そこでインストラクターが

今わかりましたよね。
これまでは、センターラインを目印にして決まったところでハンドルを回していたけど、今は道の曲がり具合に合わせてハンドルを調整してますよね。これで車を操作できているわけで、運転が楽しくなってくるところですよ。

問題を認識させ、その解決策を伝え、実行させる。

自分が問題だと思っていないことを問題だと意識させ、じゃあどうしたらいいのかと疑問をもたせ、その上で解決策を提示して実行させる。

それで、理屈だけではなく理解した瞬間に実際の動かし方が一瞬で変わる。

なるほど!!そういうことか!!

と何度か気づかされ、気づいた時点で要求されたことができるようになっている。

その流れがあまりにもスムーズで、淡々と進んでいく。

人生や生き方を学ぶのであれば、周囲の人たちの誰をも師と考えても構わないとは思うが、車の運転を習うのであれば、良いインストラクターを見つけるのが早い。

その本を読んだせいで自分の正しさを強迫的に人に対して証明し続けることをやめ、自分は生きていていいんだと緊張感が死ぬほど緩んだ

大量の本を読んできた、だから何でも知っている。

でも自分で考えて、決めてる気がしない。自分の意見がそこにはないことに薄々気がついている。冷静になってみると自分が言ってることはすべて誰か他の人の意見の焼き直し。

理論的な正しさを主張したり、論点をあえて微妙にずらして誰かを言い負かせることはできる。口は達者で理論武装は完璧にできる。自分が言ってることは正しいし、間違っていない。

間違っているのはあなたの方だ。

そうして相手を言い負かせることが生きるための方法。

でも、自分の周りから人が離れていく。

自分は無敵だが、友達はいない。

学校の勉強はできたから頭は良いということになっている。学校という閉じられた特殊な社会の中ではやっていけた。でも学校の外の現実の世界では、うまくいかないとどこかでは気がついていた。

だからといって、自分は本当は何がしたいのか?何が言いたいのかと考えると、自分が誰かに心の底から伝えたいことなど何もないことに気がつく。

自分が何かを伝えたいという欲求が存在するという考えすらなかった。

それでここまで生きてきてしまったのだが、

自分は何がしたいのか?

と考えると真っ暗なブラックホールに吸い込まれていくような感覚に襲われる。

それで、その暗黒を埋め合わせるためにさらに本を読み、誰か人の意見やたくさんの情報を頭に詰め込む。

ビジネス書、自己啓発書、宗教書、小説、誰かの人生、誰かの意見、などなどとにかく本を読んでいる限り、自分で考えなくて済む。

そうすれば、自分の中には何もないという現実を見ないで済む。

そして、間違っているのはあいつらで彼で彼女なので、自分は正しい。だから問題ない。で、自分の周りから人が離れていく。

本当はさみしいんだけど、その感情に気づいてしまったら、どうしていいのか分からないので、ふたをして見ないようにしている。

このままでやっていけると思えない。

実際のところ人生行き詰まっている。

しあわせって何だっけ?

子供の頃は、楽しかったりわくわくしたりしたことがあった気がするが、そんな感情はもうどこにもない。

そんな中で出会った1冊の本。

人は、何をしているのか?自分は何をしているのか?

人は、自分はどこからきて、どこに向かっているのか?

自分の周囲のありとあらゆる物事にあてはまる基本原理があった。

それを元に、自分と周りの人たちは何をしているのか考えてみると、周囲の人は必ずしも自分を攻撃してくるわけではなく、自分を嫌ってるわけでもなかったことが見えてくる。

誰かの考え、意見を信じた訳ではなく、様々な物事に当てはめられる法則を知り、その法則は実際に様々な物事を説明するのかどうか、自分の生活やら人間関係に当てはめて考えてみる。

それで、確かにその通りだと理解し、ものすごい安堵感に襲われる。

そして、そこにある技術を実際に使ってみる。

期待した結果が得られたか、自分で観察する。

観察して、実際に自分にとって正しいのかどうか判断する。

いくつかの知識を得て何が起こったか、その一例。

問題を解決する第一歩は、そこで使われている言葉を定義づけすることである。

で、そこに書かれていた「幸福」の定義。

読んで理解する。たしかにそれが「幸福」だと思える。

その定義を自分の人生、人の人生に当てはめて考えると、
自分はなぜ不幸せな感じなのか。
彼女は幸せになりたいと言うが、そのままじゃどうにもならない。
ということがはっきり理解できる。

では何が問題で、どうしたらいいのか。

その理由と解決策がこの定義づけによって明確に見えてきてしまう。

信じるのではなく、理解することで自分で解決策を見いだすことができた。

得られた知識と実践の結果どうなったか?

今では自分は目の前の人に伝えたいことを伝える。
目の前の人が伝えたいことを聞き、理解する。
その繰り返しができる。

当たり前で普通のこと。

でも以前はそれができなかった。
自分は正しいと主張し続けなければいけなかった。
そうしなければ生きていけないと思い込んでいた。
だから人の話が聞けなかった。

それは、自分と周囲の人たちの幸福のためには必要なかった。

今は人生を、生活を、仕事を、家庭を楽しんでいる。
まだ小さかった子供の頃、自分の中に存在していたわくわくどきどき感も取り戻した。

その本がこれ。

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それはADHDでも発達障害でもなく「子供」だ

実際に起きている現象はある。でも起きていることに名前をつけたところで、解決につながらないのであれば意味はない。それはただのレッテル。

いろんな問題があるように見えるかもしれない。

注意を向けたところにエネルギーが注がれる。

できないところ、問題点に注意を向けると、そのできなさ、問題が増幅していく。だからそれはいつまでも続いて強固なものになっていってしまう。

落ち着きのない子供。周りの大人は扱いに困る。座っていられない。周囲の子供たちとすぐにぶつかり合ってけんかする。いやがられることで大人の注意を引くことに一生懸命。

何が問題なのか?
あげていくといくつも問題は出てくる。
たくさん問題があるように見える。

発達に問題がある。だから発達障害だとか、行動が多すぎるだから多動だとか、もっともらしく聞こえるが、実際のところ、何も言っていない。
その状況を引き起こしている原因と解決策を示していない。
なんとなく脳に問題があるかのように言っている人はいるが、それを証明した人はどこにもいない。脳に問題があるという根拠はどこにもない。
思い込みと憶測が積み重なってそれが事実かのように言われているが、脳が機能しているところを見たことがある人はいない。何が正常な状態なのか、何が異常な状態なのか、明確に定義づけられているわけでもない。

実際のところ何が問題なのか?

寝不足だったり食事が偏っていたり、充分でなかったりといった身体の問題はある。それはそれで注意しなくてはいけない。

身体の問題については対処したとして、根本的には、たどっていくとすべてはコミュニケーションの問題にいきつく。

その子と他の生徒、先生との間で、コミュニケーションがまともに成立しない。何か聞いたとして、答えが返ってくるまでにやたら時間がかかったり、返ってこなかったり。

なぜコミュニケーションがおかしくなるのか?

一番根本的な原因は、コミュニケーションにおいて使われている言葉が理解されていなかったり誤解されているから。
だから、その誤解を解いて理解させてあげればいい。

ただ、それができるようになるまでには、お互いの信頼関係が成り立っていることが必要。

個人塾をやっている友人の話。

ある小学生の女の子。

薬は良くないということは分かっていた。
薬をとっていなかったことはよかった。

とにかく、まずはコミュニケーションをとる。
彼女の話を聞く。聞いたら受け取ったことを伝える。
それからこちらから彼女が受け取れる形で話をする。

そこでわかったこと。
ものすごく集中力に欠ける。何か聞いたとしても、すぐに注意があっちこっちの関係ないところに飛び、答えが返ってこない。

とにかく語彙が少なく、変な誤解がたくさんある。
「とうふ」はなぜかわからないが「こおり」なのだそうだ。

ひとつひとつ言葉の誤解を解いていくことをしばらく続けていたら、彼女は変わってきた。

だんだんとお互いにコミュニケーションが成立するようになってきた。

最近の出来事。

「ひっぱる」の意味を理解した。

あっわかったあああああ!!!!

それで、ああこれはやっちゃだめだ。と自分が今までしてきたことが、周りにとってよくなかったことに自分で気がついた。

クラブ活動で走り高跳びを自分で決めてやろうとしていた。でもどうしてもうまく跳べなくてもうやらない!!!!!となっていた。
そこで、

あなたは、自分でやろうとしていて、とべるようになるのが目的で、今ここで止まっていてできないできないって言ってる。どうするの?

って彼女の状況を彼女に分かるように話した。

で、そこで見つかったこと。「右」と「左」がなんなのか分かってなかった。

それを理解した瞬間にあああああああっ!!!!となって、
先生に言われた足の動かし方、1,2,3で右足をあげてということがどうすることなのかを一瞬で理解してできるようになった。

そうしたら、先生今日は何やりたいの?

と聞いてきた。

またコンパスを使って円を描いて欲しいの。

これまで何度も描こうとしてきたが、どうしてもうまくできないでいたこと。

それが彼女は、ものすごい勢いでコンパスと定規を使って、自分で半径3cmの円を描いた。

できるとは思っていなかったことが、できるようになってそのことに彼女自身が驚いていた。

言葉を理解すると行動が回復する。
解決策はここに。

学び方がわかる本

彼女が去った訳は、彼の中で疑われない絶対的な正しさのため

ちょっと聞いてくださいよー

一時的に派遣されてきていた彼女は、ちょっと離れたところにいるひと仕事終えてだらだらしている私たちのところに延長コード貸してくださいとか用事を作っては来て、あの人ひどくないですかー!そんな教わってもないのに教えたでしょって知りませんよ!!とかなんとかいろいろ吐き出してからまた持ち場に戻っていく。

それで私たちは、あっはっは、そりゃひでえな。まあいちいち真に受けてたら身が持たねえから、スルーして。スルー、スルースキルを鍛えるのがこの世知辛い現代社会を生き抜いていくためのコツだよとかなんとか適当なことを言ってなだめる。

何度も繰り返された光景。私はその例のあの人とは業務上直接関わることはなかったが、同じフロアーで仕事していたので、その例のあの人が周りの人から避けられていく状況を私は何度も見させられていた。

そして、もう辞めるんです。あそこで働くのもう無理。いろいろ話聞いてくれてありがとうございました。お世話になりました〜

と言われたのが彼女と話した最後だった。

あとから何があったのか上司から聞いた。

積んであったダンボール箱が作業中の彼女に向かって崩れた。
それで例のあの人はすっ飛んで行った。

真っ先にチェックしたのは、彼女ではなく、ダンボール箱の中身の商品だった。

幸い彼女にケガはなかったし、命に別条はなかった。しかし、その対応は問題ではないか。彼女は派遣元に訴え、それで派遣元からこちらにクレームが来たとのことだった。

例のあの人は取引先の担当者には気に入られ、それである案件の管理者として業務を続けていた。

受け持った案件に対しての責任は十分過ぎるほど持っていた。もう何年も土日と正月以外一度も休んだことはなく、またミスを防ぐためのチェック体制を二重三重に構築し厳格に運用していた。

まじめで一生懸命な努力家なのは間違いない。
その行動は悪意から来ているわけではない。
だから、悪い人ではない。

業務の手順、運用は熟知し、完璧に動かしていた。
彼は正しいし、間違っていない。

もちろん、取り扱っている商品は、その業務において重要なもので、傷つけたり壊したりすれば大問題になる。
商品を気にするのは当然だしそれは正しい。

では何が問題だったのか?

通常通り業務が進行しているときであれば、問題はない。
でも予想していなかった緊急事態。
優先度を状況に応じて判断しなくてはいけない事態が起こる。

自分の受け持ちの現場で人が怪我したかもしれないことと、商品が破損すること、どちらが先に対処しなくてはいけないことなのか?

それを考えることができないほど、業務の遂行は彼の中では絶対的に重要なことになっている。

何かと比較してどの程度優先順位が高いのか、判断するという発想が彼の中にはない。

話し合ったとしても、彼の中で彼は絶対的に正しいので、間違っているなどということは受け入れられない。

以上、残念ながらどうにもならない。

ありきたりなやり方では。

自分の中だけではなく、現実の世界に適用可能な論理の仕組みについては書籍「ダイアネティックス」を参照。

ダイアネティックス紹介DVD差し上げます。

メール:ask@tsuiteru.jp
Facebook:村田拓

前はちょっと残念なイケメンだったのに変わったねと言われたのはなぜなんだ?自覚症状があまりなかった5月の晴れた日。

その残念とはどこの部分を指していたのか?

人間観察が趣味のそのかわいい女子に、具体的に念入りにその説明を受けてしまったなら、タバコでも吸えたらよかったんだろうけど、吸わない私はきっとわさび味の柿ピーをやけ食いしてしまう。

実際問題、私に対して失礼だからとその残念な理由について、認識された事実をはっきりとそのまま伝えてくれることはない。

だから自分で分析してみる。前と何が違っているのか。

とにかくまず、ここしばらく妻が私に対してイライラしない。
穏やかな日々が続いている。

以前は、地雷を踏まないよう、気を遣って慎重に慎重に言葉を選んで話していたつもりだった。悩み、愚痴、問題、話してくれるあれこれに対して、あくまでよかれと思い自分の考えを論理的に述べていた。悪意があったわけでも関係を壊したいわけでもなかった。

私は、自分の思うところ、それは違うんじゃないか、こうしたほうがいい。などといったことをうまく伝わるように考えながら答えていた。

愚痴を言うな。解決策を考えろと。学生時代の恩師がおっしゃられていた。

それはまったく正しいし、その通りだし、その考えを採用して実践することに何か問題があるわけがない。だから愚痴に対してそんなことを言っていないでこうしたらいいと提案することに疑いはなかった。

女性の話はしっかり聞いて受け止めておけばいい。意見が欲しいわけでも、議論したいわけでもない。反論などもってのほかだ。というどこかから聞こえてくるアドバイスはあった。

それはそうなのかもしれないが、間違っていることは間違っていることだし、それは正さなくてはいけない。と、その貴重なアドバイスを受け入れられるだけの理解が、当時の自分にはなかった。

で、私は、妻が話してくれる仕事上のあれこれに関して、それはこうだから、こうしなくてはいけないという理屈を並べ立てる。

そして、話すんじゃなかった、もう話さないと言われ、
あれ?おれ間違ったことは言ってないはずなんだけどなんでこうなるんだ????と訳の分からない状況に陥る。

そんなことを繰り返すうちに、取り返しのつかないところまで行ってしまっていたのがちょうど去年のこの時期だった。

そして今。妻が話してきたら、聞くし、自分が思ってることはそのまま話す。それで何も問題が起きない。以前のように気を遣って慎重になって言葉を選んでなんてことはしていない。とにかく無理してない。そのままでいる。そして話したいことを話し、聞きたいことを聞く。それだけ。

穏やかな毎日。

前はこんな自然な感じじゃなかった。

あまりにも今は自分が無理したり努力したりしてないので、自分がこの一年で大きく変わったという自覚すらない。

以前はもっと無理していろいろと取り繕っていた。無理していること自体自分で気がついていなかった。

以前の私は、愚痴を言いたくなるその感情の存在に気づいてさえいなかった。自分のも人のも。考えは考えだし、感情は感情だ。受け入れがたいドロドロとした感情でも、受け止められる誰かがいれば、消えてなくなる。なにかしら受け入れがたい感情が渦巻いている中では、それを処理しないうちに考えは伝わらない。いくら論理的に正しかろうと、それは論理的に正しいというだけで、求められていることは、感情を受け止めるということだったわけで、私はずれたことをしていた。

自分が伝えたいことを伝えるのは別に構わないのだけど、相手がして欲しいことがあるのならば、まずはそれを行ってからということになるだろう。今だったらそれが理解できる。

当時の私は、相手の状況を見ることよりも、自分の正しさを主張することにエネルギーを注いでしまっていた。
だからうまくいかなかった。

どうやって変わったのか?

過去の出来事はすべて心に記録されている。
そして、痛みと無意識を含む記録が、自分が意図しないところで、気がつかないうちに自分に悪い影響を及ぼす。そしてその記録がもともと持っていた自分の意思とは違うことを、知らず知らずのうちに行ってしまう原因になる。

詳細については、書籍「ダイアネティックス」にある。

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旅の終わりの落下物

あくびをしていたら、隣のごつい黒人男性が、疲れるよな。それが旅ってもんよ。とか話しかけてきた。

帰りのアメリカ国内便。満席の小さめのジェット機。私のシートは一番後ろから3列目の通路側。地方の空港からワシントンDCに向かう。そこで乗り換えて東京に帰る。

今朝5時起きで4時間しか寝てなくて、眠いんだけど機内はうるさくて寝られない。

ダブルブッキングで、別の飛行機を飛ばすために移動する乗務員を乗せるために、一人の乗客を警官が大けがをさせながら無理矢理引きずり出したことが、最近ニュースになっていた。そんなニュースが広く流れている状況で、まともな社員だったらもうそれ以上会社の評判を落とさないように気をつけて慎重に業務を遂行するだろう。だからまさか二回目はないだろうし、大丈夫だろうと思って自分を納得させて飛行機に乗り込んだ。ところがだ。

その乗客引きずり降ろし事件も、事後対応も含めたくさんのミスが重なった結果起きたこと。

予約がとられていてもある決まった割合の客が現れないことは確率的な事実。なので、損失を最小限に抑え、飛行機を満席にするために実際の座席分より多めに予約をとるのが通常の運用。それでもし座席分より多い人数がチェックインしていたなら、搭乗前の段階で、いくらかのマイルだったり金額で後の便に回ってもらうアナウンスが空港で流れる。もし集まらなかった場合金額が上がっていく。場合によってチケット代以上の額が入ってくるので、旅慣れている人はそのアナウンスを聞いたら受付カウンターにダッシュする。

ただし、その事件の際は、既に搭乗済みの段階で、ダブルブッキングが発覚。さらに、降機してくれる乗客を募集する際に、金額をつり上げていく運用を怠った。本来の運用が行われていれば、このような事態は起こらなかったはず。

さらに、事後対応もひどかった。乗客に非があったという釈明があり、その後大炎上した後になってからの謝罪。

いろいろと対応がひどすぎた。

そんなことがあり、今回私が飛行機に乗り込む際にまあもう大丈夫だろうと自分を納得させる作業が必要になった。

2時間の飛行の後、ワシントンDCの空港に到着。着陸時の地面からの衝撃とスピードを落としたための後方からの急激に力が加わる。

それと同時にドカドカドカっと何かが後ろから飛んできた。
なんだ?非常事態かと周りを見回すと、1リットルのミネラルウォーターのペットボトルが、十数本転がっている。

幸い誰かにぶつかってけがしたりとかいうことはなさそうだった。そばに落ちていたペットボトルを拾い、スチュワードに渡そうとしたら、どうぞ!欲しい方には差し上げます!
すかさず隣の黒人男性は手を上げて、くれ!!
ペットボトルを受け取って、あっはっはと笑いながら私に肘をつんつん当ててきた。

私もつられて笑ってしまった。

もちろん、航空会社は、やらかしてしまったことに対処する必要はあるし、今後の改善策をたてて実行し、信頼を回復させていく努力は必要だろう。しゃれにならない状況の人もいることは分かっている。

でも、旅人としては、笑ってすませられることだったら、それですませてしまった方が楽しい。

あの黒人男性の態度は好きだ。

しょうがねえなあ。あっはっは。

あなたはバカじゃない

自分は頭が悪いと主張する生徒さんがいた。言ってくることに対して、甘ったれてんじゃねえよと叱ったところで、どうせ自分はダメなのでとさらに自分を落とし始めることになる。どこにも行きつかない。

「頭わるいし、才能ないし、興味も持てない。自分バカなんで。」

勉強ができない理由を考えようと思えば、いくらでも考えられる。
問題はやるかやらないかで、できない理由とかどうでもいい。理由考えるより、どうしたらできるのか、とにかくやってみようよ。うまくいかせるためのやり方はあるし、それは伝えられる。だからまずはやってくれ。結局できない理由なんてのは、やらない言い訳でしかない。
などと正論を述べたところで、自分はバカだと思い込んでやらないで済むように自分を守っている彼には届かない。

「そもそも親のレベルが低いんだから自分がこうなのは仕方ない。」

「先生の教え方が悪い。学校が悪い。教育制度が間違っている。」

親も先生も完璧じゃないし、いつも正しいわけでもない。ただ、先に生まれて知っていること経験してきたことはある。それを生かすのもほっとくのも自分次第だし、年をとるごとにきついことを言ってくれる人はいなくなっていく。何か言ってくれるのであれば、それはありがたいことだ。
教育制度が変更され続けているのは、それが時代の状況に合わなくなっていたり、社会の中で教育機関に求められていることと実態がずれているからで、それが何かしら良い方向に向けるために試行錯誤があって変えられているのであれば、悪くはないだろう。学校の先生をはじめ教育に関わる心ある人は、いろいろ難しい状況がある中で自分の持ち場でできる限りの努力をしている。
なんだって人のせいにすることはできる。まわりのせいにしておけば、自分は責任を取らずに済む。楽な道だ。でも、結局自分ができないでいることの結果を引き受けることになるのは自分だ。

などと反論しようもない正論を色々と述べてみても、またまたできない理由が出てくる。

「脳に欠陥がある。なんとか障害かもしれない。病気かもしれない。」

不安に感じてうっかり専門家の手にかかったら、診断マニュアルに従った科学的根拠があるように見せかけたそれっぽい病名をつけられる。ディスレクシアとか発達障害とかなんとか障害とか。それでああ自分は病気なんだと病名をつけられて安心したところで、自分の人生から逃げられるわけでもない。

こんな話をしたところで、意地でも、自分はバカだから勉強は無理だ。と言ってくる。延々とできない理由が出てくる。それだけいろんな理由が出てくるんだから、十分頭は働いてる気がするが、付き合うだけ時間の無駄。

別にそれは正しいとか間違っているとか議論したいわけでも議論に勝ちたいわけでもない。勉強ができないのであれば、できるようになってもらいたいだけ。それが目的。私が議論に勝ったとしても、彼が勉強できるようになるわけではない。

とにかく数学の成績がひどいので何とかしたいという気持ちはわずかながらある。ならば数学、算数で段階を下げて、以前できていたというところから、順番に練習させていく。何年も前にやっていた段階に戻す必要があるかもしれない。とにかくできていたのはどこまでなのかを見つける。

意味があやふやだったり、
知らない用語は、理解できるように手伝う。
数学だったら特に記号の意味が重要。
+、ー、=などなど
これが何を意味しているのか、
いつも使ってるからわかったつもりになっているけど、
「=」
が何を意味しているのか、なんとなくわかったつもりでいて、十分な理解がないから、ただの計算式と方程式を混乱させてしまったりする。

一つ一つ用語と記号の意味を理解させた上で、何かの問題が解ける度に、

すげーよ。できたじゃんか!!

と言う。いちいち言う。毎回毎回しつこく言う。

慣れないうちはムッとされたりと予想外の反応が返ってくることもある。でも、そんな態度を取っていたとしても、言い続ける。

本人が意地でも自分はできないと思い込んでいるのは、
周りからダメだダメだできないできない
と繰り返し繰り返し繰り返し言われ続けた結果。
小さい頃から誰か身近な人に、ダメだ、できないなどなど否定的なことを言われて続けたら、自分はダメなんだと思い込んでしまう。

最初は、些細だったり簡単なことでいいので、自分はできるってことに自分で気がつくよう仕向けていく。

それができたら、できることの量や質を少しづつ増やしていく。

一人一人の様子を見つつ、引っ張りあげていく作業で、手間はかかる。

でも、最後には自分で勉強を進められるようになっていく。

なにか、結果を出さなくてはいけない状況で、
病気だとか脳に問題があるとか、才能がないなどなど、
理由を考えたところで、どこにも行き着かない。

自分がバカだと言うのは元々は誰かが言ってきた意見であって、事実ではない。

あなたは、バカじゃない。

やり方を知らないだけ。

勉強のやり方については、こちら。

これからは精神性の時代だ

ほとんどの宗教は平和と平穏な生活、個々人の精神的な向上を目指している。
では、それをどのように実現するか。明確な結果のでる技術、ノウハウが必要である。
祈って何かが解決するなら祈ればいい。でもそれは目的を達成するための確実な手段ではない。

部屋の明かりをつけたいなら、スイッチを入れる。
バイクのスピードを上げたいならアクセルを回す。
祈る必要はない。ただやる。
で明かりがつく。スピードが上がる。意図した結果が生まれる。

昔、仕事でビルの窓拭きをしていた。その話をすると、怖くないのか、危なくないのかと聞かれる。

事故を起こさないために、ブランコをぶら下げる本ロープの他に本ロープとは違う場所に結びつけた補助ロープを下ろし、そこに安全帯をつなげる。

そうすれば、もし万が一、一本のロープが切れたりほどけたとしても、
もう一本のロープに体が繋がっているので落っこちて全身打撲で病院送りになったり、頭から血を流して脳みそが露出するような事態は防げる。

仕事中は道具と窓の表面に注意を置いて、窓ガラスの汚れが落ちているか、汚れやふき跡が残っていないかどうかを見ておく必要がある。

落っこちる恐怖を感じつつ無事を祈りながら、大量の窓ガラスを綺麗にする作業などできない。
もっと言えば、その仕事の目的は、大量の窓ガラスの汚れを落として過ごしやすい環境を維持することである。
事故を起こさないことは、目的ではなく、目的を達成するための前提条件でしかない。
事故を起こしたなら、それは運が悪いせいではなく、信仰が足りないせいでも神様やら誰やらのせいでもなく、自分が対策を怠ったせいだ。

だから自分がやるべきことを正しく行っていたら怖くないし、危なくもない。祈る必要はない。

新聞の見出し、テレビで、ダラスで白人の警官が黒人に射殺されたというニュースが流れていた。

白人と黒人の間に人種間の対立があるという解説。

分断されるアメリカ。

もっともらしく聞こえるが起きていることをただなぞってるだけのかっこいい言葉。

事態はもっと悪くなっていくだろう。
これからさらに起きてしまう暗い未来を予測する記事。
起きてしまっていることをはたから眺めて、あれこれ言うだけで何もしなかったら事態は確かに悪化していく。
悪いことは起き続けるだろう。良くないことが起きる未来を想像したなら、それはそうなっていくだろう。
想像した未来が現実になる。

でも、そんな未来を見たいのか?

その未来を選ばなくてはいけない理由はない。

まず、不要な対立がなく人々が協力して仕事したり生活したりしている明るい未来を想像することはできる。
そして、その想像した明るい未来に向けて何をしたらそこに近づいていけるのか?平和な環境を作るためにできる確実な方法があるはずだ。

ロサンゼルス南部地域でギャングのリーダーたちが集い平和を宣言した話をイタリア人から聞いた。

フロリダ滞在中ホテル1階のカフェで、昔東京で一緒に仕事してたイタリア人の家族を見かけた。

座んなさい。いっしょに食べよう。

目の前で繰り広げられる動きが多いイタリア語の会話。
楽しそうですげえ盛り上がってるのはわかるのだが、なにを言ってるのか全然わからんと思ってたら日本語で話してくれた。

80年代、科学者がロサンゼルスの未来予測をした。
これから世紀末に向けて、犯罪発生率が上がり続ける。
ロスの未来は暗い犯罪都市。

でも、実際には21世紀に入ってからの大勢の努力によって穏やかで平穏な環境が作り出されてきた。
21世紀に入って15年間ずっとロスの犯罪発生率は下がり続けている。
以前とは比べものにならないくらい安全に過ごせる都市になってきている。

でも、治安の悪い地域がまだある。

ロスの南部、数多くのギャングのグループが存在し対立しあっていた。
街を一人で歩いているとあっという間に襲われる。撃たれる。誰であろうと近づくと命の危険があると言われる一帯。

最近この状態を変えようとした人がいた。

有名ラッパーThe Gameとネーションオブイスラムの牧師Tony Muhammadが
ラジオ、インスタグラム、大量のチラシで南部地域のギャングのリーダーたちに呼びかけた。

「俺たちはお互いに話す必要がある。地域の若者達に対しての影響、どうやってお手本を示すことができるか?」

南部地域のギャングのリーダー達がサイエントロジー教会コミュニティセンターに集まった。

さらにロサンゼルス市長と警察署長、様々な宗教コミュニティのリーダーが集まった。
総勢2500人が集まった。
ネーションオブイスラムの牧師Tony Muhammadが呼びかけた
「平和と協調を求めるならば拳を上げてくれ」
そこにいる全員が拳を上げて応えた。

平和で安全な環境を作るための具体的な地域での活動。
Losの南部も、通りを歩くのに祈る必要はなくなる。

医者の意見じゃなくて、子供の意志と能力を信じた。発達障害、ADHDは嘘

3年ぶりに会った中学生の男の子。小学校では支援学級に通っていたが、中学に上がる時、普通級に移った。これは前例のないことだという。

彼が小学生になったばかりの頃、私は彼の勉強を見ていた。

なんでこれをやるんですか?

何か新しいことを始めるたびに聞いてくる。

細かいことにこだわってよく質問してくる。

ひらがな、カタカナがまだ書けない。変な風に書いてしまう。周りの子達はもうできるのにできない。

お母さんは心配されていた。

就学時前検診で、発達に障害があるとみなされる。
お子さんの今後のために支援学級をお勧めします。とやんわりと圧力がかけられた。

地域によって検診のやり方は違う。

彼の地域では、50分、子供と医師の一対一で面談、テストする。
それで、障害の有無、可能性を判定するという。

そんな、いつもと全く違う環境で初対面の大人にお母さんと離れて一人で面談。子供は緊張する。そんな中あれこれ聞き出され、テストされ、普段とは違う対応をしてしまうだろう。

その医師と名乗る専門家が子供をチェックする内容。発達障害、ADHDの根拠とされる子供の振る舞い。

年齢で学習の遅れ、能力の偏り、言動が幼稚だとか大人びているとか、言い間違えが多いなどなど。

彼のどの部分が問題とされたのかはわからない。でも結果として支援教室に通うことになった。

彼は元気な男の子だった。勉強という部分では同学年の大部分の子と比べれば遅れているようには見える。

でも、その時点で、ひらがなやカタカナを完全に書けなかろうが、いずれどこかの時点で書けるようになる。他の子と比べるんじゃなくて、昨日の自分、先週の自分、先月の自分と比べてどうか?少しでも学んでできるようになったことが増えているなら、問題ない。

質問が多くて、自分で納得しないと言ったことをやろうとしないのは、それは自分の軸があって自分で判断して決められるってことなわけで、それは良いことではないですか。何も疑問に思わずに、ただ言われたことに従っていれば、良い子とみなされたりするけど、そっちの方が実は問題は大きいかもしれない。

発達障害とか、ADHDという名称はあるけど、それは医者がそう言っているだけの話で本当はそんなものはない。本人の意志をうまく方向付けしてあげて、それで「学び方がわかる本」の勉強の技術に沿って、彼が自分で学んでいけるようにしていけばいいだけのこと。

と当時彼のお母さんに話をした。

大人の世界に染まっていない子供。社会的に抑えつけられていない分、エネルギーがある。しかしもちろん知らないことできないことがある。理解できないことに次々に出くわす状況の中、腹を立てたり、気分がひどく落ち込んだりすることもある。暴れてものに当たって、壁を蹴って殴ってと行動がエスカレートする子も中にはいる。

そこで、これは何か障害があるのではないか、病気ではないかと医者に相談すると、お薬での治療をということになる。

薬を取るとどうなるか。
薬は基本的に知覚を鈍らせる。今、目の前で起きていることが見えなくなる。

ある女の子。苦手な算数をなんとかしたいということだった。でも勉強に取り組めない。やりたくない。どうしたのかと聞くと、担任の先生がひどい。それで気分が悪い。何があったのか具体的な事情を聞く。ほとんどの場合、そこでしっかり話をさせて、聞いてあげられれば、勉強に取り組めるようになる。

でもその子は、話が延々と終わらない。泣いて腹をたてる。これが、毎回毎回何度も続く。何かおかしいとよくよく聞いてみると、精神薬を取っていることが判明した。

薬は知覚を鈍らせる。目の前のことが見えなくなる。そして、今、目の前の状況とは関係なく、以前の起きた様々な出来事が関係のない時に突然よみがえってきて、その時の腹立ちやら悲しみといった感情が抑えられなくなったりする。

結局、薬による反応をなんとかしない限り、勉強に取り組むのは難しい。
起きている身体的、心理的な反応が勉強の障害にぶつかったためのものなのか、薬のせいで起きているのかがわからない。

発達障害の原因は脳に何らかの異常があるという科学を装った根拠のない嘘。生きて活動している人間の脳を見た人は誰もいない。

問題が解決しないのだとしたら、それは正しい原因ではない。

普段の生活で問題がある可能性はある。食事、薬、睡眠、両親の関係などなど。それは、見つけ出して解決しなくてはいけない。

本当の問題は、周りの人が、実際に、その子とコミュニケーションが取れていないこと。勉強の面について言えば、彼とコミュニケーションをとった上で、実際に何に引っかかっているのかを見つけられないこと。

子供が腹を立てていたり、ぼーっと上の空になっていたり、じっと座っていられなかったり、ヒステリックに叫び出したり、とにかく、いろんなことが起きて、何かおかしいという状況はある。それは発達障害だから、ADHDだから、脳に障害があるからというのは、起きていることの理由にはなっていない。起きている症状にレッテルを貼っているだけ。

勉強させていて起きるこれらのこと、ちょっとしたことから、激しくヒステリックになってるような大変なことまで、私は、「学び方がわかる本」にあるアメリカの教育者L.ロン・ハバード氏による勉強の技術で対処してきた。
こういった現象は、障害とか病気で起こるわけではない。勉強していく上でぶつかる壁によって引き起こされる。その壁は3種類あり、それぞれ解決法がある。

中学生になった彼、風呂の水をためる時間の問題を前にして、

これはなんの役に立つんですか?

と聞いてきた。
聞いてくるところは昔と変わっていなかった。

だから、比例の計算を役に立てる彼が身近に感じられるであろう実際の例をいくつか話した。

例えば、今、ガソリンが大体1リットル100円するんだよ。1リットルで車が10キロ走れるとして、1000円あったら、車でどこまで行けると思う?

などなど。彼は納得して問題を解き始めた。

理解していた。

わかっていないことをわかっていて、ちゃんと質問して解決できる。

彼は大丈夫だ。問題ない。

お母さん、周囲の理解の無さと戦い続けた。
だから、彼は自分の人生を生きられる。